| 沖縄の焼き物の歴史(れきし)6 |
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| 戦後(せんご)の壺屋焼きから現在(げんざい)まで 昭和19(1944)年3月に始まり、昭和20(1945)年6月まで続いた沖縄戦(おきなわせん)が終わって、ぎせいをまぬがれた人々は、ふたたび日常(にちじょう)生活を再開(さいかい)します。 ところが、着の身(み)着のままで戦場(せんじょう)をさまよっていましたし、戦争で住宅(じゅうたく)なども破かいされておわんや皿、つぼなどの生活品もありません。米軍のほりょとして収容所(しゅうようしょ)に入れられ、米軍からの配給(はいきゅう)品でなんとか毎日を暮らしていたのです。 そこで米軍は、人々に日用品の焼き物を行きわたらせるために、生きのびた壺屋の人々を集(あつ)めて、収容所から壺屋に帰すことにしました。 とう芸にかかわってきた壺屋の人々は、それぞれ工場(こうじょう)や会社(かいしゃ)をつくって焼き物の生産(せいさん)にはげむようになります。しかし、ふたたび本土の焼き物が輸入(ゆにゅう)され、使われるようになります。 そこでアメリカ人向けのおみやげ品のような製品(せいひん)もくふうしながら作り始(はじ)めます。みそがめや水がめ、酒がめなどの大型(おおがた)の製品は水道やプラスチック製品がふきゅうするようになると、売れ行きが落ちていきます。 一方(いっぽう)、世の中が落ち着くようになると、作品としての壺屋焼きも少しずつ評価(ひょうか)されるようになり、内外(ないがい)の展示会(てんじかい)に作品を出品(しゅっぴん)して賞をもらう人たちも出てきます。 ところが、1970年ごろから壺屋では、焼き物を焼くかまのけむりに「公害(こうがい)」ということで苦情(くじょう)が出るようになり、たきぎを焼く登(のぼ)りがまからガスを使うかまに切りかえるか、登りがまを使えるこう外に移動(いどう)する人々も現(あらわ)れます。 今では、300年以上の歴史を持つ「壺屋焼き」の伝統(でんとう)を守りながら、現代げんだい)の生活に通用(つうよう)する焼き物を作ることを心がける人々もいますし、芸術的(げいじゅつてき)な作品で自分の個性(こせい)を打ち出そうという人々もいます。 さあ、あなたはどの方向でこれからの沖縄の焼き物は進むべきだと思いますか。自分が好きな作品を見つけ、ながめながら考えてみましょう。 |
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![]() にぎわう壺屋(1950〜1955年ごろ) |
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![]() 戦後(せんご) 初めて焼かれたわん |
![]() 沖縄タイムス社の「沖展(おきてん)」で、うで前をきそう |
![]() 初めてとう芸で人間国宝(こくほう)になった金城次郎(きんじょう・じろう)の作品 |