| 沖縄の焼き物の歴史(れきし)5 明治時代(めいじじだい)から太平洋(たいへいようせんそう)まで |
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| 明治(めいじ)12年になると、それまで王様が国を治(おさ)める王国(おうごく)だった琉球(りゅうきゅう)は、日本の国の一県(けん)「沖縄県(おきなわけん)」として、新(あた)らしくスタートします。 それまで、壺屋は王国が管理(かんり)・経営(けいえい)するかま場でしたが、新しい時代(じだい)になって、自分たちの考えで製品(せいひん)をつくり、はん売しなければならなくなります。 生活も、日本本土(ほんど)のスタイルが入ってきて、近代化(きんだいか)が進(すす)みます。 製品も県内(けんない)だけでなく、県外(けんがい)にも移出(いしゅつ)するようになりますが、本土でつくられた商品(しょうひん)を仕入れて県内(けんない)ではん売する業者(ぎょうしゃ)も現(あらわ)れ、那覇市(なはし)にもお店をかまえます。 本土でつくられた製品は、安くて軽(かる)いなどの理由(りゆう)から、広く使われるようになり、そのため壺屋のジョーヤチははん売数が減(へ)ります。 またアラヤチの製品は、日本とロシアが戦争(せんそう)したときにあわ盛がたくさん輸出(ゆしゅつ)されたために、その入れ物としてたくさん売れたこともありますが、その後は売れない、といったように、時代の移り変わりによってはん売数も上下します。 また本土から来た商人(しょうにん)の注文(ちゅうもん)で、新しい種類(しゅるい)の製品(せいひん)もくふうしてつくり、はん売するようになります。 大正(たいしょう)時代から昭和(しょうわ)の時代にかけて、暮らしのために作られ、使われている焼き物や着物(きもの)などの手作りの工芸(こうげい)品の美しさを強調(きょうちょう)した民芸(みんげい)運動(うんどう)をリードする人々が何度も沖縄・壺屋をおとずれ、壺屋焼きも高く評価(ひょうか)されて、全国にしょうかいされるようになります。 ![]() 昭和(しょうわ)のころの壺屋風景(ふうけい) |
![]() 焼き物のはん売を手がけた商人が開いたますだ商店 ![]() 本土から入って使われたわん(スンカン・マカイ) ![]() あわ盛を入れてはん売するためのつぼ |
| 太平洋戦争(たいへいようせんそう)の時は、軍(ぐん)の注文(ちゅうもん)を受けて兵隊(へいたい)用のおわんをつくるなど、壺屋は近代(きんだい)の歴史(れきし)の波をもろにかぶり、変わっていきます。 |
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![]() 日本酒を入れるとっくり(壺屋焼き) |
![]() 兵隊(へいたい)用のわん(壺屋焼き) |