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沖縄の焼き物の歴史(れきし)2


3  かわらのはじまりと王国(おうごく)時代(じだい)のかわらづくり

(1)かわらのはじまり

浦添城(うらそえじょう)の城(しろ)あとや首里城あとなどのいせきから発見されたはい色のかわらには、「高麗(こうらい)」のかわらしょく人がつくったということが記(しる)されています。
「高麗」は朝鮮(ちょうせん)半島にあった国のことです。

同じような種類(しゅるい)のかわらを「高麗系(こうらいけい)かわら」と呼んでいます。

にたようなかわらで「大天(だいてん)」と記されたものもあります。

これらは、14世紀の後半(こうはん)につくられたと考えられています。

また「大和系(やまとけい)かわら」と呼ばれるはい色のかわらもいせきから見つかったり、発くつされています。ただ、これらのかわらがどこで焼かれたかはっきりしたことは、わかっていません。
こうらい系がわらのかけら
こうらい系がわらのかけら

だいてんがわらのかけら
大天がわらのかけら




(2)王国(おうごく)時代(じだい)のかわらづくり


かわらはお城(しろ)とかお寺の屋根(やね)をふくために使われたと考えられます。そのため、国の方しんとしてかわらづくりが進められたようです。

王国の16世紀の後半(こうはん)には、せい府に「かわらぶぎょう」という役目(やくめ)がもうけられていたことがれきし文けんに記されています。

また、中国からかわら作りのしょく人が沖縄に来て、作り方をおしえたという記録(きろく)や言い伝えもあります。その後は中国の作り方でかわらがつくられ、はじめはやはり灰(はい)色でした。

 焼き方が変わって赤がわらが作られるようになったのは、17世紀後半(こうはん)からのようです。1672年に首里城(しゅりじょう)がかわらぶきになったのをかわきりに、お寺や地方の役所(やくしょ)もかわらぶきに変わります。火さいにあいにくいかわらぶきを政府(せいふ)が進めたと考えられます。

こうしてかわらのじゅ要がのびたため、各地にかわらを焼くかまがつくられるようになりました。


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