屋焼物博物館紀要第2号(2001.3)




発刊にあたって
渡名喜 明


越 真澄
壺屋焼物博物館ができるまでー展示シナリオの作成を中心に博物館の完成と課題を振り返るー


仲尾次 潤
壺屋焼物博物館の常設展示準備を振り返る


渡名喜 明
那覇市立壺屋焼物博物館の位置づけと開館の経緯(下)

        発刊にあたって  館長  渡名喜 明

 特別展「日本のやきものー日本民藝館名品展」が開催されている。開館記念特別展以来である。そして目下、県教育委員会に「登録博物館」の申請を提出、審査を待っている段階である。このふたつが済めば、とりあえず「博物館」の当面の体裁は整ったと考えている。いよいよ来年度から第二段階に入る。
 紀要2号をお届けする。創刊号に続いて開館を巡る文章や報告で埋めるが、それは、当館の開館を巡る諸経緯を明らかにしておくことはまず市民への情報公開として必要であり、また博物館づくりを計画しておられるところで同じ轍を踏まないことを願ってのことである。
 今回は展示構成の案づくりから施行の段階まで、乃村工藝社の側から精力的にこの博物館づくりに関わってきた越真澄さんに玉稿を寄せていただいた。越さんのやわらかい感性にいつも感服しながら仕事を進めてきたことが、読ませていただきながら頭をよぎった。ここに記してお礼を申しあげる。

                               

屋焼物博物館ができるまでー展示シナリオの作成を中心に博物館の完成と課題を振り返るー                   越 真澄


1 はじめに

壺屋から沖縄を考え博物館づくりを考える契機に
 私にとって壺屋の仕事は大変思い出深いものです。今でも思い起こすほどに、壺屋の仕事が、沖縄の歴史・文化を勉強する全ての原点になっていた、との思いが強くなります。
 壺屋焼を取り上げるためには、背景となる琉球・沖縄の歴史、日本との関係−近世・薩摩との関係、近代化の過程、戦争との関わり等−、さらに本土資本の流入や開発等現代的課題までを視野に納める必要があります。また、諸外国との交流史を見渡し、考古学的成果からその発達を捉え、「琉球の富」と呼ばれた沖縄独自の文化の数々を振り返り、さらに人々の暮らしの中で息づいてきたその機能や用途、生活との関わりを再検証するなど多角的な視点が必要でした。沖縄の風土を実地体験として感じさせていただいた多くの方々との触れ合いも含め、沖縄を捉え、考える数多くの引き出しがここにあったと考えています。
 また、壺屋焼物博物館をつくり上げる過程で考えられた課題が、現代の博物館づくりの課題に通じる多くの示唆を含んでいたことを改めて感じます。例えば、博物館に求められる今日的役割、地域とのつながり、文化・観光の振興、市民参加等。さらに、博物館づくりや展示づくりそのものについても。

展示は館の顔−そして活動の第1ステップ
 近年、博物館の目指すところは、文化財公開の場から地域文化の創造・生涯学習拠点へ、また、地域活性化という行政課題を担う集客施設へと多様化の道をたどっています。こうした設立の目的・役割の変化の中にあっても、展示は常に博物館の顔であり、その館の性格や個性を訪れる人たちに端的に伝えるものでなければなりません。
 そして、「展示」があることが、博物館と他の社会教育施設(図書館・公民館等)との最も大きな違いです。常設展示を中心に、企画展示や特別展示があり、さらにイベントなどの形で学習の動機づけが常に用意され、調査・研究の裏付けを基に、情報提供や交流促進といった学習支援活動が整備されている施設は博物館だけと言って良いでしょう。
 来館者が先ず最初に博物館と出会い、最も身近に接する場、それが「展示」です。この展示をきっかけに、来館者が興味を広げ、次なるステップへと歩を進めてくれるのか、館と来館者とのより深い豊かなつながりへと継続的に導いていくことができるのか・・。展示づくりに携わるほど「展示」の完成は、博物館が開館し、出発する、そのスタート台だ、という思いが強くなっています。
 開館後、博物館が博物館として活き活きと活動していくための土台となり、人々の出会いと交流の舞台として訪れる人たちそれぞれの心の糧となる展示を形づくることができたのか、その期待と反省を込めながら壺屋焼物博物館の完成までを振り返り、展示づくりをたどってみたいと思います。

2 展示ストーリーづくりとその変遷

基本路線をつくるのが仕事
 私が壺屋焼物博物館の計画に最初に関わったのは、1994(平成6)年、基本設計のためのプロポーザル資料の作成時でした。それから4年の歳月をかけて、基本設計、実施設計、展示工事が完成していきます。
 この業務の中で、私は、プランナーという、一般には余り耳慣れない職種で展示に携わらせていただきました。では、プランナーとはどのような仕事をする人々なのか・・。展示づくりの出発点において、社会的動向や上位計画の分析などを基に博物館の方向性を検討し、展示については、展示の目的、テーマを明確にし、扱うべき展示内容について学芸員の方たちや研究者・専門家の方たちからの成果をいただき、具体的な展示制作に効果的に変換していくための基礎的な翻訳作業をする役目、とでもいえばいいでしょうか。展示ストーリーや展示の内容・構成のたたき台をつくり、空間計画や各展示メディアの演出計画と連動することで、全体として相乗効果をあげ得る基本路線を敷くことが先ず第一の大きな仕事となります。

展示ストーリーの変遷には館の方向性が見える
 今日の博物館の展示は、館側が来館者に伝えたいと考えるテーマやメッセージによって紡がれたあるストーリーに基づいて構成されていきます。展示ストーリーに関して、壺屋焼物博物館では、基本設計のたたき台となったプロポーザル提出案、基本設計、実施設計、さらにその後の調整・見直しというエポックを経て開館へとこぎ着けました。これらの変化を見ることは、館として何を伝えるのか、という博物館の根本的な姿勢をかいま見ることにもつながると思われます。
そこで、以下に、展示がどのようにつくられていくのかという流れも含め、壺屋焼物博物館の展示ストーリーの変遷を概観し、その過程で重ねられた変更点・留意点等を書き留め、今後の博物館活動について考えるヒントを探す作業を進めたいと思います。

基本設計のたたき台として−プロポーザル案
プロポーザルの結果、乃村工藝社が選定され私も設計担当者の一員としてプロジェクトに携わることになります。その際作成した展示ストーリーが図の1です。これが展示設計を検討していく第一段階でのたたき台となりました。

 図1

現代との接点を意識
 ここで、この第一案を形づくる前提として掲げた博物館計画に対する基本的考え方を振り返っておきます。
 計画の背景として、1682年の壺屋への統合以来の歴史、柳宗悦に全国一と推された伝統、地域に残る文化財や歴史・自然景観など潜在的な魅力を持つ壺屋が、都市化の進展とともに煙害問題や新規住民とのあつれきなどの悩みを抱え、地域の持つ歴史的価値や文化的意義の重要性を失いつつあること、これに対し那覇市は、「ヤチムンの里づくり」などの上位計画によって歴史的文化的遺産を活かした地域の再生を目指していることを把握。こうした現状と課題を踏まえた上で、基本方針として、地域の再生と活性化を最重要課題と捉え、上位計画・周辺計画との整合を図りながら、現代社会(現在)と関わりを持ち続けつつ成長発展する博物館を目指したいとしたものです。
 ややもすると現在の社会や生活とは縁遠い存在になりがちだったこれまでの博物館。しかし、地域博物館としての壺屋焼物博物館には、市民や関係団体、研究機関等各所と連携しつつ、地域固有の特性を集積し新たな創造へと結びつけていくことで、地域自体の将来展望と密接につながっていくことが求めれているのではないか、という考え方です。
 現代に生きる博物館づくりのために、具体的な展開としては以下のような提案を行っています。
・展示環境には「琉球の富」と賞された歴史と伝統に裏付けられた美意識を反映、来館者層ごとのきめ細かな展示を想定する
・活動には住民参加型を志向し、窯業関係者と共に一般市民の参加を促し、交流の場を生み出すことで、地域活性化という課題の共有化を図る
・エコミューゼの視点を採り入れた整備を図り、 地域とのつながり・活性化を具現化していく
 これらの考えは当然展示とだけ結びつくものではなく、全体計画の中で、構想から設計へとつながる底流として息づいていったものと認識しています。
 こうした考えの下、展示ストーリーは、大きく「壺屋前史」「壺屋焼−その用と美−」「壺屋焼と現代」の3ゾーンを設定。「壺屋焼−その用と美−」の中心となる「琉球の美」では、名品・優品の実物展示と、壺屋焼の歴史と特徴を紹介する複合演出シアターの展開という二重構造を核にテーマを集約、「現代の壺屋焼」を常設展示のエンディングとして、周辺地域へと出発していくという構成でした。
 もちろんこの段階では建築の規模や実物の有無、資料の存在などは明らかではなく、入手し得る文献資料を頼りに魅力化を図ったテーマとストーリーづくりでした。ここから再度基本設計段階として何を語るべきかの再考がなされた訳です。

基本設計−生活との結びつきを重視し再構築
 基本設計段階では、館全体のねらいを確認するとともに、展示テーマの設定、展示ストーリー(基本シナリオ)の作成、展示構成とゾーニング、採用する展示諸技術の設定などが必要となります。中でも設計の初期の段階では、空間計画や演出計画に先だち、先ず情報の受け手、即ち来館者に何を伝えていくのかを検討しテーマの軽重を判断することが重要です。この基本設計案の策定のため、県内各分野の専門研究者を中心とした展示検討委員会が設けられ、討議が重ねられました。
 検討委員会では、先ず初めに博物館の性格、事業方針、これらに沿った事業内容について確認されています。館の理念となる視点は4つ。
1.文化観光の視点
2.地域コミュニティー形成の視点
3.国際化の視点
4.陶磁史研究の視点
 展示案の作成も、こうした館の理念を理解したうえで進められなければなりません。また、ここでは、伝統工芸館との差異化を図ることが大前提とされました。
 委員会での要望は、先ず、生活と密着した展示を押し出して欲しい、という点でした。製品の日常生活での使われ方とともに、壺屋焼の歴史を陶工たちの生活とからめて描けないかという指摘もなされました。一方で沖縄の焼物史の系譜と壺屋焼の位置づけを考慮し、歴史の流れ、諸外国の影響についても語らねばならないという指摘、さらに、壺屋焼そのものを深く探っていく内容についてもストーリーの中で整理していくことが求められました。また、民芸運動を独立したテーマで扱うかどうかといった点などについてもスタディを重ね、この結果、図2のように、「歴史」という時間軸に沿った流れと、「生活」という空間軸の設定による展開、そして「焼物・技」そのものへ焦点を当てる展開という形でテーマ構成が確定していきました。
 この段階での変化は、日常の中での壺屋焼の姿が大きく立ち現れたという点です。それに伴って、焼物に関わる「人」の姿がより鮮明に浮かび上がってきたように思われます。これは、他の言い方をすれば、壺屋焼に対する外部からのまなざしを、内側から発する視線へと転換させていった作業でもあったと思えます。
 特に、時代的には民芸運動によって壺屋焼が再評価された昭和10年代という設定でしたが、陶工たちとのつながりを重視した「暮らし」の視点が明確に位置づけられたことが、その後の展開への重要な鍵となったと言えるでしょう。

空間の洗礼を受けてストーリーが生きる
 こうして定まったストーリーを、建築というステージに重ね合わせる空間デザインの作業が加わり、展示空間に、「時代の小経」(スージーグワー)を抜けて民家の裏庭に至るというドラマ性が加わりました。さらに民家を実物大で再現することにより、民家内部の生活の視点から、シーサーや瓦と連動させた焼物の特徴ゾーンへと、1階から2階への視点移動を活かしてテーマを変化させるという効果が生み出されました。
 この暮らしの場の再現という展示方法は、空間的な結節点となるとともに体感的な理解や、季節ごとの可変展示の場という側面、さらに、シアターの環境として人々の生活の舞台を表すという大きな意味を持つものとなりました。

 図2

残された課題・詳細を決める資料・実物は・・
 ストーリーの大枠が決まっていく一方で、伝統工芸館との差別化を前提に、当館では歴史上の事項として現代を扱うものの、その扱い方をどうするのか、また、次なるステップ、ストーリーの主役となるべき展示物や必要な資料の確定はなかなか進まず、実施設計以降の懸案事項として積み残されていきました。

実施設計〜施工
 実施設計では、固まった展示ストーリーを基に情報内容をさらに吟味し、項目・細目を階層化して資料や実物との関係を体系的づける展示構成リストを順次詰めていきます。ここでは展示物や各展示メディアの詳細が決定され、制作へと受け渡されていきます。
 この段階で展示シナリオに影響を及ぼしたのは、ニシヌ窯の出現と待望の館長の登場でした。
 ニシヌ窯は、発掘現場で見たその全容、焚き口の焼けた色とともに、展示を待つ剥ぎ取りを見た時の強い印象を良く覚えています。焼物の破片がザクザクと突き刺さったその形状はこれまでに全く見たことのないものでした。建築のご苦労も含め、展示においても空間を含めまた一段の再考が必要だったものの、この壺屋の歴史の証言者が、発掘された場とほぼ同位置に展示され1階と2階とを結んだことは、場の持つ力と実物の持つ力が相まって求心力が生まれたエポックだったと思えます。

博物館理念の具現化
 そして1996(平成8)年準備室長となった現館長との打合せを進めさせていただく中で、展示項目にもいくつかの組み替えや付加などの変更が生まれました(図3)。これらは館の考え・方向性を明確にするための大きな修正であったと考えています。
個々の項目については置くとして、全体としての大きな変化は以下の3点に集約されます。
●館の意志を表す「テーマ」を明示する
●現代とのつながりを示す
●地域とのつながりを具体的に採り入れる
 これらは、展示の中では相互に関係しあって展開されていきます。
 先ず、なぜ今壺屋焼物博物館なのか、そもそも焼物とは何なのか等、当館の理念を、来館する方々に先ず初めに示すべきなのではないか、しかし展示を通して結果として何を感じ持ち返るか、その結論は来館者一人一人の心に委ねよう、という趣旨が話し合われました。
 また、社会全体の価値観やライフスタイルが変化する中で、壺屋、そして壺屋焼はどう変わったのか、その占める位置はどう変化したのか。現代生活と壺屋との関わりを焼物を通して語ることが館としての一つの問題提起となる、という考えが示されました。
 さらに、シアターについても、地域とのつながり、現代との接点という視座を持つ形となりました。人・暮らしに焦点を当てていくという検討を重ねた結果全面的に採り入れられた地域の人々の参加は、ベテランの陶工から若手まで、女性も含め一人一人が壺屋のこれまでとこれからを生き生きと語ることで、豊かなメッセージの発信に成功していると思います。住民参加に代表されるこうした展示内容の実現は、一重に博物館理念の具現化を目指したものと言えるでしょう。
 地域の人々との触れ合いの空間、また外来者への地域情報の提供の場として、現在のゆんたくコーナーも生まれました。そして、壺屋焼の特徴をどのような製品・作品に託して語るのか、その実物の選定も進みました。

  図3

必要だった意思決定・推進責任者
 博物館は過去を振り返り未来を考えるもの、現代との接点は避けて通れないもののはずです。市民とともに現在を考え将来像を探るためには、そのよって立つ地域とのつながりを抜きに考えることはできません。地域の現状・課題・将来像を見据えていくという考え方、そのために地域とのつながりを大切に捉えるという視点は博物館計画の当初からのものではありました。しかし、これを確実に定着させていくためにはやはり責任を持った意思決定者の存在が如何に大切か、展示の最終的な修正を通じて痛感した段階でもありました。

3 結びに

準備体制の必要性そして「博物館なれど準備室」
 展示は、本来それまでに積み重ねられた調査・研究の成果と蓄積を基に構成されていくべきものです。展示設計に携わる者は、こうした貴重な成果をいただき、何をどのように伝えるのか、館と来館者とのより良いインターフェイスを考えて、効果的な情報構成・表現・環境づくりなどを提案していくことが使命であると考えます。そのためには、やはり早い段階での学芸職員の方々の配置や準備室の立ち上げなど、責任ある推進体制の整備がぜひ必要だと言えるでしょう。
「準備室なれど博物館」、これは、最初の学芸員の採用から8年という準備期間の蓄積を、展示づくり・博物館づくりに活かしたことで有名な滋賀県立琵琶湖博物館のキャッチコピーです。開館後も、「博物館なれど準備室」を掲げ、リニュアルまで視野に入れた中長期計画を作成、活動の蓄積を重ねています。
壺屋焼物博物館も、博物館づくりの経緯を活かし、これからの活動をぜひ次なるステージへとつなげていただきたいと期待します。

理念を実現できる展示づくりを目指して
 これまで見てきたように、展示づくりは、その骨格となる展示ストーリーの作成にも多くの検討・討議が必要です。その上で、詳細内容の確定、展示手法や空間構成の決定、各メディアの詰め、製作など多くの人たちの連携・共同作業が必要となります。
 壺屋焼物博物館の展示完成までの経緯を振り返るとき、博物館関係者も含め、こうした展示に携わる多くの人々が常に立ち帰れるしっかりした理念の構築の必要性を感じずにはいられません。その上に展示の方向性を重ね、理念が理念だけに終わらず展示の場にも生かされるよう、今後も努力を重ねたいと考えます。

展示から地域へ・地域とともに生きる博物館
 21世紀、新しい世紀は新生の時代。地域には文化の核があってこそコミュニティーのバイタリティーが生まれると信じます。
 地域と結び、展示づくりを通して博物館への住民参加を実現してきた「壺屋焼物博物館」。今後も、現代に生きる利用者と密接に関われる博物館として、地域の文化と暮らしの接点を探り、新しい活力を生み出す「場」となることが期待されます。そして、地域へ広がるエコミュージアムの充実をぜひ実現していただきたいと思います。
最後に、展示の完成に向けて、深夜遅くまでパネルの一字一句を吟味し精査した思い出を込め、壺屋焼物博物館の展示が、これからも地域への広がりのステージとなり活動の起点となり続けることを願いながら、もう一度館のメッセージを噛みしめたいと思います。

「この展示を壺屋のまち並みにつなげていただき、壺屋焼と沖縄の焼物のこれからを考えていただければ幸いです」


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発刊にあたって
渡名喜 明


越 真澄
壺屋焼物博物館ができるまでー展示シナリオの作成を中心に博物館の完成と課題を振り返るー


仲尾次 潤
壺屋焼物博物館の常設展示準備を振り返る


渡名喜 明
那覇市立壺屋焼物博物館の位置づけと開館の経緯(下)
屋焼物博物館の常設展示準備を振り返る 仲尾次 潤


はじめに

 1997年3月末、私は学芸員への職名変更と焼物博物館準備室への異動の内示を受けた。当時の私の心境は、「学芸員」という携わってみたかった職につけるうれしい気持ちがある反面、準備室がどのような状況にあるのか理解していないことと、学芸員として業務を行っていく準備ができていない、という不安があったのが実際であった。同じ教育委員会に勤務していたので、壺屋に博物館を作ること・準備室の設置・展示資料がない・学芸員もいない、でも98年の2月には開館予定である、ということは知っていた。しかし、それ以外のことは知らなかったし、何より壺屋や焼物のことについて、ほとんど勉強していなかったからである。
 そのようななか、準備室長(以下、「室長」)と城間技査(以下、「技査」)から「4月は、学芸員の定数職員は君一人になる。そのため常設展示に関する窓口は、君が担当になる。異動前だけど常設展示監修委員会へ同席して欲しい」との連絡を受けた。その日、私は教育委員会会議室で監修委員に紹介され、また展示工事の施工業者である乃村工藝社の上原裕氏(以下、「上原氏」)・プランナーの越真澄氏(以下、「越氏」)と顔合わせをすることになった。その席で、12月半ばには展示工事を終えなければならないことを改めて知らされたのである。
 4月、準備室に異動した私は、室長と技査から業務についての説明を受けた。担当する常設展示に関する主業務は、@五つあるゾーンのうち、Aゾーンの「沖縄の古窯」からB・Cゾーン、Dゾーンの「壺屋焼の製法」の部分について、A複合演出シアターソフト制作について、B展示工事のうち、情報系の作業についての乃村工藝社との連絡調整、C常設展示監修委員会の開催、の四つであった。展示工事全体をみてきた技査からは「展示工事には、展示ケースや室内の内装と併せて、映像展示のソフト・パネルやネームプレートの作成・資料の展示作業等も含まれている、君の仕事は展示に関するソフト面をまとめてもらうことだ」との説明があった。そして、展示ストーリーや展示の展開プランを理解するために、『壺屋焼物博物館展示基本設計』と『壺屋焼物博物館展示実施設計(以下、『実施設計』)』に目を通すよう助言をもらった。
 こうして私の準備室勤務は始まった。以下では展示工事終了までの作業を中心に記していく。

複合演出シアター(1) 
シナリオ構成案作成作業

 97年4月の段階における複合演出シアターソフト制作に関する進捗状況は、ほとんど振り出しに戻った状況にあった。前年中に、室長の提案で、『実施設計』に示された展開プランを白紙にし、壺屋の人々からの聞き取りをもとにシナリオを作成し、映像は写真資料をスライド化して構成することになったからである。乃村工藝社の方も再構築の段階にあったのだ。
 そこで、まず壺屋の人々から聞き取りを行うことになった。4月中旬、壺屋陶器事業協同組合の会議室を会場に壺屋の皆さんにお集まりいただいた。1回目は古老達から、2回目は現在活躍している陶工たちからの聞き取りとなった。この聞き取り調査は、大きな収穫をあげた。聞き取りの内容をもとに、現在の映像展示の内容・構成を組むことができたからである。そして、私にとっても収穫のあるものであった。調査内容を基礎資料とすることができたし、この調査をきっかけに壺屋の人々との接点を持つことができたからである。
 5月から8月にかけては、準備室で起こした聞き取り内容をもとに、乃村工藝社から送られてくる展開プランの校正作業が続いた。当初、乃村工藝社側は、シアターの構成を民家に住む架空の家族が語る内容とし、少女のナレーションに対し、第1話は曾祖母が、第2話は祖父が、第3話は母が、第4話は兄が、それぞれ語る≠ニ設定し、シナリオのとおりに標準語で音声を入力する方向で展開プランを提案してきた。これに対し、室長から「この案ではシアターの意図する壺屋の人々の心意気は伝わらない。直にインタビューした生の声を用いなくては」との意見がでた。そこで検討した結果、室長の意見を全面的に入れて、ナレーションはウチナーグチ(沖縄方言)で、語りは、壺屋の人々の話す声を入力することになった。そのように修正した8月12日作成の最終稿を台本として承認し、話者の選定と出演依頼については、準備室の方で行うことにした。
 実際に音声の編集にタッチする業者の方は「きちんと使える声を収録することができるかわからない。」と非常に困っていたのであるが。

複合演出シアター(2) 
写真資料の情報収集と著作権処理

 シアターの骨格は上記のように進められていたが、その肉となるべき「映像」=写真資料については、準備室では1枚も所有していなかったのである。そのためすべて撮影するか、使用許諾を得なくてはならなかった。
 写真資料の情報については、「使えそうだな」と思う写真の載った文献のコピーを取り、時代ごと・場面ごとに整理した資料が、3月まで準備室に勤務していた臨時職員により作成されていた(このデータは、シアターだけではなく解説パネルにも使える可能性のあるもの、として集めたものであった)。編集担当者からは、シナリオのやりとりのなかで「これだけでは構成するのが難しいかもしれないのでもう少し探して欲しい」との連絡があった。まだコピーを取っていない文献から写真を探すことが必要な作業として加わった。この情報収集作業は、文献以外からも、資料の寄贈、解説パネルやシナリオ校正のための調査といった他の作業の中からも徐々にではあるが集まり、進んだので、それほど難しくはなかった。むしろこの作業を通じて、既存の文献ではあまり紹介されていない戦後の米軍統治下の壺屋焼の製品(諸見民芸館や恩納村教育委員会所蔵の焼物資料)を探しだし、撮影・収録することができた点で、価値のあるものであった。
さて、一番大事な作業である写真の使用許諾については、遅々として進まなかった。写真を使用するためには、著作権者にシアターの趣旨を理解してもらい、許可を得なければならない。そのためには著作権者の所在を調べなくてはならない。そこで出版社や現在の所有者に電話して著作権者を教えてもらい、その後著作権者に電話し、内諾を得た後、使用許可願いの依頼文章を著作権者に送付する、といった作業が必要だった。電話で話をした著作権者の数は41件にのぼった。なかには著作権者が変わっていた場合もあり、なかなか一筋縄ではいかなかった。そして著作権処理作業だけに集中することができなかったことが作業を遅くしていた。当時は、展示資料の収集・解説パネル作成のための調査・原稿作成など同時並行で行っている状況にあったからである。最初の使用許可願いの依頼文章を送付したのが7月末。それから約2ヶ月近く著作権者とのやりとりは続いた。

複合演出シアター(3) 
編集作業

9月中旬、話者の音取りとナレーションの音声収録・シアター第4章部分および戦後の焼物資料の撮影が行われた。あわせて写真資料のうち、沖縄本島内にある写真資料を借用する作業があった。9月からは臨時学芸員が2人配置されたので、写真資料の借用、話者の送り迎え、書類に添付するリスト作りなど協力してもらった。そのおかげで音声入力と撮影の際には集中して関わることができ、また全体の作業も順調に進みだした。
10月後半には、シアターの音の部分および字幕スーパーの原案が提出された。しかしこの音だけではどうにも判断することができない、との室長の判断で、音声の承認は、11月中旬の大阪のスタジオでの仮編集に持ち越すことになった。
11月の仮編集には室長と私、建築を担当した真喜志好一氏が立ち会った。そこでスライドと音声を組み合わせて「映像シアタ−」の原案を見ることができた。「第1章、第2章の写真のコマ送りがあまりにも早い。もう少しゆっくりできないか」「この字幕ではやはりおかしい」。室長と真喜志氏から指示がはいる。私は、使用された写真が、時代的に即したものであったか、確認を行った。編集側からは、使える資料が少なかった第1章・第2章には、年代が異なっても使用した方が効果的だと思われる写真をいくつか入れている、との説明があった。これについては、室長・真喜志氏とも検討して、展開上やむを得ないものに限って使用することにした。スライドを差し替え、コマ送りのタイミングの調整のために5.6回試写を行った。音響は、組み合わせてみてさほど違和感がなかったのであろうか、室長・真喜志氏とも異論なく、承認となった。
仮編集後に必要な作業は、使用した写真の提供先・著作権者の表示情報を送ることであった。11月下旬、シアターに関する主要な作業は一通り終了した。

解説パネルの原稿作成と資料の収集(4月〜8月)
 97年4月の段階において、映像以外の情報系の作業については、まず解説パネルについては、1階展示室の主要部分であるBゾーン(現在の「壺屋焼の歴史」部分)は、解説趣旨も固まっておらず、その他のゾーンについても、『実施設計』に示された趣旨のとおりに紹介することが決まっているだけであった。展示できる資料も、ようやく集まり始めていた、という状況にあった。
 解説パネルについては、3月末の段階で、上原氏から「4月に入ったらパネルの作成に入りましょう。また、趣旨が固まっていないものについては4月中に決めましょう」と言われていたが、そのとおりに進めていくのはほぼ不可能だった。
 当時の私は、ほとんど何もわからないので、室長に指導してもらいながら、非常勤学芸員が集めていた文献資料をコピーさせてもらい、また図書館に通って勉強する、という段階だった。また、私が担当する部分には、壺屋での聞き取り調査や、実際に資料を見て情報を集めなければ説明できない展示コーナーが多数あった。そのため、私の解説パネル原稿の作成作業は、@4月中頃:調査を始め、また資料を見て、情報を集める。A5月中頃:調査内容と参考文献と併せて図版化・文章化する作業に入る。B8月:監修委員の先生方に原稿の内容を点検・校正してもらう作業に入る、という状況で進んだ。
 もちろん学芸員は私一人ではなく、もう一人いた(97年5月採用)のだが、彼も開館記念特別展等も受け持っていたために、常設展についての作業の進み具合は、私よりも若干遅れ気味であった。
 私の担当したコーナーのうち、Cゾーン(現在の「暮らしと壺屋焼」部分)とDゾーンの「壺屋焼の製法」の部分については、文献と併せて、壺屋での聞き取りにより、解説内容を集める作業を行った。調査項目は、@再現民家の展示(モデルとなった民家全体の間取り・台所で用いた容器の種類と用途および配置等)、A壺屋の移り変わりを示す地図(昭和初期と1970年頃について)、Bアカムヌー(成形方法・陶土・焼成温度・主な製品について)、C陶土の採集地情報(荒焼・上焼とも)、D製法工程の確認(荒焼・上焼とも)、E釉薬の種類(名称・方言名)、F製作道具と窯道具(資料名・用途)、G窯の各部の方言名(荒焼・上焼とも)、H壺屋焼の製品名と用途(嘉瓶・渡名喜瓶・瓶子など)、である。
 聞き取りの際、壺屋の方々は、皆、仕事中にも関わらず、積極的に協力して下さった。Fの調査の際には、所有する資料(道具・焼物)を寄贈下さる方や、資料を製作して寄贈下さる方もおられた。当時は、展示する資料がないまま調査している状況だったので本当にありがたかった。また、@の調査では、展示室に再現する台所部分のうち、三番座側の引戸がひとつであり、もう一方の引戸の部分は壁であることがわかった。これにより、設計変更して実際の間取りのとおりに再現することができたことも大きな収穫であった。
 Aゾーン(現在の「沖縄で生まれた陶器」部分)とBゾーン(現在の「壺屋焼の歴史」部分)については、文献と併せて、実際に資料を見る≠アとが、解説内容を集める作業として必要だった。壺屋焼をはじめ、沖縄産陶器の特徴を理解するためである。 資料を見る作業は、4月から7月にかけて行った。読谷村・沖縄市・宜野座村の博物館・資料館や大宜味村教育委員会を訪ね、また、沖縄県文化課の若狭資料室や那覇市の文化課資料室にもできるだけ足を運び、陶片や所蔵資料を見せてもらった。その際には室長も同行し、資料それぞれの特徴について教えていただき、考えて下さった。
 また、Bゾーンについては、解説趣旨を固めるために、監修委員会を開く必要があった。そのため、5月中旬、上原・越両氏にも出席してもらい、1日かけて監修委員会を開催した。午前の会議では、Bゾーン全体の解説趣旨・構成・解説パネルの枚数、壺屋焼歴史年表の掲載内容等についての大枠を、午後の会議では、ニシヌ窯の展示方法・解説内容を決定することができた。
 解説パネルには、情報として他の博物館や個人・団体が作成・撮影した図版や写真を掲載するものが多数あった。これらの図版・写真については、シアターの項で記したように、著作権処理を行う必要があったが、最初の使用許可願いの依頼文章を送付したのが7月末であった。作業が遅くなったのは、掲載する写真の内容の確定や、著作権者の特定に時間がかかったためである。
 解説内容をまとめると同時に、展示する資料も収集しなければならなかった。前年度中に収集した資料は購入・寄贈あわせて120点ほどあった。しかし、すべてが展示できる資料ではなく、また、民具、製作道具・窯道具などはないため、資料数は圧倒的に不足していたからである。
 資料の収集については、5月に採用されたもう一人の学芸員と分担し、彼が資料の購入を、私が資料の寄贈をそれぞれ受け持つことになった。しかし、すべてその担当が行うということではなく、ふたりで協力しながら収集していった。資料の購入調査については、室長を交えて行い、7月・8月には、資料収集評価委員会を開催し、合計で80点余の資料を評価していただき、そのうち79点を購入した。
 さて、準備室では朝から夜遅くまで、ほとんど毎日、上記のような作業を続けていたが、8月末までにどれだけのデータを乃村工藝社に送ることができたかというと非常に心許ない状況だった。上原氏からは「掲載内容がひとつでも決定したものについては決まり次第情報を送って下さい。順次レイアウトしていきますので」と言われていたが、製作するパネル103枚のうち、情報がすべて確定していたのは16枚しかなく、情報を送っていないのが65枚もあったからである。作業・スケジュールともに限界の状態に陥っていたのである。

演示台作成から展示作業まで(9月〜1月)
 9月に入って、展示工事は新たな段階を迎えた。乃村工藝社から現場代理人・野崎氏がやってきたのだ。ケースや内装など、造作工事が始まった。
 準備室にも変化があった。臨時学芸員が2人配置されることになったのである。2人が来てから、展示に関する作業は急速に進み始めた。リスト作りや写真資料の受け取りなどの補助作業のほか、資料の計測、民家に展示する戸棚や瓦の製作道具の作成のための調査など、必要だが時間がなくて手を付けられなかった作業を分担することができたからである。
 9月には、パネルの原稿も室長の最終チェックを終えて、越氏によるリライト作業の段階に入った。タイトルはこの段階でようやく固まったので、各パネルの英文タイトルを決めることができるようになったが、これについては、室長から琉球大学の英文科の先生方に依頼することになった。文字・写真を含め、すべての情報が、パネル製作担当に渡ったのは11月末のことであったが、作業は、校正作業を経て、急ピッチで進んでいった。
展示情報が固まってきた9月下旬、上原氏から、展示資料を確定してほしい、との連絡が入った。造作工事のなかで演示台の作成が迫ってきたからである。
展示ケースについてはほとんどが『実施設計』のとおりに製作されることがなっていた。そこで『実施設計』をもとにケースの幅・奥行きを計り、臨時学芸員に作ってもらった段ボールの展示台を使って、私と室長、臨時学芸員とで各ケース毎に展示シュミレーションを行い、その結果を私が平面図化・立面図化して上原氏に情報を送る作業を続けたのである。この作業を通じて、現在常設展示室で使用している演示台は作成されていった。10月後半には、状況確認と打ち合わせで来館した上原氏も交えて作業することもあった。
 展示のシュミレーションを行うことで、最低限展示しなければならない資料がわかってきた。それらのうち、不足している資料については、11月後半に、再び資料評価委員会を開催して購入することになった。そして、どうしても購入するのが不可能な資料については、寄託・借用を依頼することになった。こうした作業を経て、展示資料が確定したのは11月末であった。
演示台と展示資料の確定作業に続いて、ネームプレートの作成と演示具の決定作業を行った。ネームプレートは、展示替えを考慮して情報を表示した紙を挟んで置くスタイルで制作されることになっており、工事ではプレートのほか、情報の印字まで行うことになっていた。寸法は、シュミレーションから、小さい資料でも邪魔にならない大きさで、ということで、現在の大きさのもの(縦4p×横8p)に決定された。印字する情報については、室長・臨時学芸員の意見も交えながら決定し、製作担当に送信する作業を続けた。情報が確定したのは12月の初めであった。
演示具は、資料をよりよい状態でみてもらうための小道具である。今回の工事では、皿立てなどの一般的な形態のものとあわせて、地震があっても焼物が割れないために、耐震性の演示具を用いることになっていた。上原氏からは「基本的にはE・Q・ガード≠ニいう展示美術品用耐震マットを使いたい」との連絡があった。使用している博物館等に事情を聞いた結果、館蔵の陶器・磁器の資料については、地震対策としてE・Q・ガード≠使用し、借用・寄託資料については、テグスでの固定が行われることになった。すべての演示具を決定したのは、12月の初めであった。  再現民家の展示については、臨時学芸員の一人が民俗専攻だったこともあって、彼女に補足調査をしてもらい、また、資料の選定・配置についても一緒に考えてもらった。監修委員の上江洲均先生からアドバイスをもらって作業を進め、収集した資料をレイアウトし、見ていただいたのが展示工事終了の前日のことだった。
 12月半ばに入ると工事は佳境に入った。まず映像装置・演出照明が設置され、続いて演示台、パネルの順で設置されていった。演示具とネームプレート・台紙を納品し、工期最終日の12月19日に工事そのものは無事終了したのである。
展示作業は、年を越して1月に行った。演示のプロを加えた乃村工藝社スタッフの協力を得て、次々と資料がデイスプレイされていく。98年1月6日、作業は終了した。展示工事は名実ともに終了したのである。

おわりに 
 これまで記してきた一連の作業によって、壺屋焼物博物館の常設展示はできあがった。わずか8ヶ月のうちに展示資料を収集・決定し、また展示解説・映像ソフト等のすべてを決定・作成しなければならなかったのが現実だったといえる。しかしこのスケジュールでなんとか乗り切ることができたのは、ひとつは9月に臨時学芸員を配置できたことが大きかったと思う。これは、このままでは展示工事を工期内に終えることができないと判断とした室長と技査の要求に、財政課が予算の流用を認めて実現したのであるが、実際、この時期の配置がなければ、工事は終了せず、開館を遅らせる状況になっていたであろう。
 もうひとつは、施工業者である乃村工藝社が、遅々として進まない準備室の進捗状況を考慮して、各作業をいつ進めてもいいようにバックアップしてくれたことである。特に、作業を統括した上原氏には、ほとんど毎日のように続いたFAXや電話でのやりとりを通じて、あらゆる作業において助言をいただいた。そして、時期を追うに従って厳しくなってくる中で、現状に対応した作業工程を提示し、導いてくださったことが、当時の資料を読み返して、改めて思い起こされる。
 さて、壺屋焼物博物館の建設・設置に際しては、行政における企画・財政と人事が噛み合わす、展示工事の最終年度にようやく若干数の「学芸員」の配置がなされた。このような事例は、教育施設である博物館を設置していくに当たって、利用者の立場から考えた場合、良かったのだろうか。そのように考えるのは、私が、調査・研究の下地がないままの状態で、展示解説や映像ソフトの制作に取り組まなければならなかったから、ということからではない。教育行政のスタンスとして看過できない問題だと思うからである。
博物館とは、展示されるモノ≠通じて来館者が学習していく場所である。そしてモノ≠集めてそこから得られた情報をもとに、テーマを設定して展示空間を構成し、モノ≠フ持つ意味を利用者に伝える学習の手引き役が学芸員の役割である。そして展示は、学芸員が準備する教育手段のひとつなのである。こういった原理から言えば、学校における教員の役割を持つ学芸員を置かずに博物館を作るということは、利用者に対する教育活動を放棄している、ということになってしまうのではないだろうか。
 那覇市では、今後もいくつかの博物館的施設の建設が計画されている。教育委員会では、文化財の保存・公開のための施設や、科学理論を学ぶ施設として「子ども未来館」が、また、市長部局では、旧文化局の「総合文化施設」などがそれらに当たることが『那覇市の教育』や『文化行政の概要(1996年版)』に記されている。どの部局が所管しているものであれ、いずれの施設も利用者にとっては、「教育施設」としての役割を持つはずである。とすれば施設には学芸員の設置は不可欠なものとなるであろう。
 「学芸員」は配置換えのきかない専門職である。そのため、人事担当者からすれば、その設置が難しいのは理解できないわけではない。しかし、利用者や納税者の立場に立った行政運営が求められる今、施策として施設の建設を行う場合は、施策の実現のために、準備段階から必要な人員を配置する必要があるだろう。そのうえで充分な蓄積と検討を重ね、利用者の立場に立った施設づくりを行うことが、利用者の視点に立った行政の実現に繋がっていくのではないだろうか。
 今後も多くの自治体で、博物館的施設が作られていくであろう。壺屋焼物博物館の常設展示準備に関わった者として、その施設が利用者を向いた教育施設として作られることを願ってやまない。


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発刊にあたって
渡名喜 明


越 真澄
壺屋焼物博物館ができるまでー展示シナリオの作成を中心に博物館の完成と課題を振り返るー


仲尾次 潤
壺屋焼物博物館の常設展示準備を振り返る


渡名喜 明
那覇市立壺屋焼物博物館の位置づけと開館の経緯(下)
市立壺屋焼物博物館の位置づけと開館の経緯(下) 
                 
               渡名喜 明


目次

(上)(創刊号)
はじめに
1.博物館と博物館法
2.壷屋焼物博物館と那覇市伝統工芸館
3.「基本構想」に見る理念と方針
4.スケジュールと組織
5.常設展示基本計画
(下)(本号)
6.展示シナリオづくりと資料収集ー常設展監修委員会と資料評価委員会
7.開館記念特別展
8.図録など各種刊行物の発行
9.課題ーその後

6.展示シナリオづくりと資料収集ー常設展監 修委員会と資料評価委員会
 1996年3月、わたしの那覇市教育委員会配置が内示された時点で、さっそく常設展監修委員に加えてもらった。この委員会は常設展示のシナリオづくりと施工を担当する乃村工芸社のプランを検討するために設けられたものである。この席でわたしは常設展づくりの基本的な認識として次の3点があげられるのではないか、ということを提起し、確認を得た。
 すなわち、沖縄の焼物の歴史を鳥瞰し、今後の沖縄の焼物を展望すると、
 (1)日本本土、朝鮮、中国、東南アジア諸地域との交流
 (2)焼物は、常に暮らしとともにあり、暮らしとともにあった。
 (3)沖縄の自然があっての沖縄の焼物、すなわち自然との交流
 以上の三つの交わりを常設展示の基本的な指針としたい、ということである。
 並行して、建設敷地から出土した「ニシヌ窯」跡をどうするかで呼び出され、那覇市教育委員会文化課長の金武正紀、設計の真喜志好一、両氏と協議した。その結果、最下層から出土した1号窯を掘り出して館内に展示すること、層をなしている窯床の断面をはぎとり、これも歴史展示のコーナーに追加することで意見が一致した。
 新年度を迎え、金武正紀(考古学)、那覇市歴史資料室長の田名真之(歴史学)の2氏に新たに監修委員に加わってもらい、シナリオの最終チェックに入る。監修委員会は全体会議の他に以下の部会に分かれた。
考古部会
 嵩元政秀(那覇市文化財調査審議会委員)    池田榮史(琉球大学教授)
 金武正紀(那覇市教育委員会文化課長)
歴史部会
 高良倉吉(琉球大学法文学部教授、H8年度のみ)
 田名真之(那覇市歴史資料室長)
民俗部会
 崎間麗進(那覇市文化財調査審議会委員)    上江洲均(名桜大学教授)
美術工芸部会
 平良邦夫(沖縄県文化財保護審議会委員)    津波古聡(沖縄県立博物館指導主事)
 議論の中でわたしなりの変更案を示したのは、「暮らしの中の壺屋焼」のコーナーである。まず、「復元民家」(台所部分)は従来の民家調査のデータから各要素を抽出し、「デザイン」する、という従来の案に異議をとなえた。それでは、観客に誤解を与える恐れがあるうえ、学問的な検証にも耐えがたいとの理由からである。そこで、戦前建てられた木造民家で現存するものをベースに復元し、その家の住人から聞き取り調査を行ったうえで、資料を配置することを提案し、了承された。
 またこのコーナーは吹き抜けになっていて、壁は曲面になっている。この壁面では一日に十数回ナレーション付きでスライドの連続映写を行う予定になっている。そのシナリオについても新たな提案を行った。従来の案は基本テーマを「琉球の美」とし、それを焼物を中心にしながら紅型など他の工芸品も取り入れつつ画面を構成しようというものであった。しかも観覧者に親しみやすいようにイラストを多用しようというのである。これに対してわたしは、舞台はあくまで壺屋、関連写真をできるだけ収集し、それに地元の人々の語りを加えつつ連続上映する方法を提起した。イラストではその歴史的検証に手間取ること、焦点がぼける恐れがあること、が大きな理由である。全体を戦前2部、戦後2部の4部構成となったが、つなぎのナレーションは沖縄芝居俳優の北島角子を起用することも提案、いずれも監修委員会で了承され、そのように変更された。
 一方、資料収集については1996年度12月議会で補正予算に計上・議決されたのを受けて、1月30日に「那覇市教育委員会焼物博物館準備室資料の評価に関する要綱」および「同資料収集要綱」を策定して資料収集評価委員会を開催、関連資料の評価をお願いした。資料の真贋および焼物博物館の展示にふさわしい資料か否かを審議・評価してもらうものである。
 すでに市民には資料の寄贈や寄託を市の広報紙やマスコミで依頼し、申し込みも壺屋地元を初めとして増えつつあったが、初めに述べたようにゼロからの出発であったため、展示シナリオを埋める資料がなかったり、シナリオにない資料が出てきたりで、結局展示シナリオづくりと資料収集を併行して進める結果になった。当然といえば当然だが、博物館関係者から見ればありうべかざる事態であり、当然、常設展監修委員会から同様な指摘も受けたが、関係者の絶大なご協力によってともかくも開館に間に合わせることができたのは幸いであった。
 常設展示検討委員会は、10回開催された。
 
7.開館記念特別展「陶磁器に見る大交易時代の沖縄とアジア」
 「博物館準備室長」として赴任した時点では、博物館・美術館の開館時に通常開かれる「開館記念特別展」開催の話はまったくなかった。建物建設と常設展準備に忙殺され、それどころではない、という状況だったのである。そこでわたしは、開館記念特別展のテーマとして「陶磁器に見る大交易時代の沖縄とアジア」を企画し、その準備にかかった。趣旨は下記のとおりである(抜粋)。
 時代の趨勢は国際化である。沖縄県の場合このキーワードは、1609年の島津侵入以前、すなわち14〜16世紀の琉球王国が、中国・朝鮮・東南アジアそして日本との間で自主的な交易活動を行うことによって繁栄していた時代の現代的再現をイメージしながら語られることが多い。その標語ともいうべきが、1458年鋳造で首里城正殿前に掛けられていたいわゆる「万国津梁の鐘」の銘文である。「大交易時代」とは、その銘文が記す「舟楫を以て万国の津梁と為し、異産・至宝は十方刹に充満せり」(船舶を諸国と結ぶ架け橋とすることによって、異国の宝物類が国々に充満している)という時代であった。
 ところが現在では、沖縄県立博物館に所蔵・展示される万国津梁の鐘他のいくつかの梵鐘や海外交流史料として知られる『歴代宝案』(残るは写本のみ)を除けば、この大交易時代の遺産を普段見ることはできない。その大きな理由は、この時代の遺産が極めて少ないということだが、唯一例外がある。
 その例外こそ、県内各地の遺跡で出土しているおびただしい数の輸入陶磁器類である。(中略)
 壺屋焼物博物館は、基本方針に「国際化の視点」と「陶磁史研究の視点」を掲げている。そして「焼物」の概念を、陶器や壺屋焼に限定せず、土器から磁器まで幅広く収集・展示する方針をとっている。沖縄における輸入陶磁器の時代は、沖縄における本格的な陶器生産に先行し、しかも直接間接に沖縄における後続の陶器生産に影響を与えている。しかし常設展示に占める輸入陶磁器の時代のスペースは限られている。(以下略)
 「展示方法」は下記のとおりである。 
 那覇市教育委員会及び県内市町村、県教育委員会がこれまで発掘してきた輸入陶磁器の陶磁片(復元された資料を含む)を出土地、時代順、産地別に並べるとともに、これらの資料と同時期、同産地、同種の陶磁器の完品と比較することによって、「大交易時代」の沖縄(琉球)がアジア諸地域とどのような文化交流を行っていたかを明らかにする。 
 「展示の意義」は下記の通り。
 考古学者や一部の陶磁器研究者にとっては、沖縄から出土する同時代の輸入陶磁器の出土量が県外の例に比して圧倒的に多いということ、言い換えれば当時の沖縄のアジア諸国との文化交流がハイレベルにあったことは知られているが、そのことを具体的に示した展示会は、県内ではかつてない。この展示会を開催することによって、当時の沖縄(琉球)・那覇がアジア地域における国際国家・国際都市として活躍していた姿を明らかにすることができよう。国際都市構想をかかげる現在の沖縄県にとっても、またその中核を担わんとする那覇市、平和都市・文化都市・生活都市をまちづくりの指針とする那覇市にとっても、この展示会から示唆を得るところは大きいと考えられる。
 以上の企画案をもとに、その展示作業を準備・点検するための諮問委員会として「特別展監修委員会」を設置することになった。委員は以下の方々である。
 長谷部楽爾(元東京国立博物館次長)
 尾崎直人(福岡市美術館学芸員)
 金城亀信(沖縄県教育庁文化課主任)
 金武正紀(那覇市教育委員会文化財課長)
 会議は3回開催、原案の検討、展示資料・解説パネル・図録内容の検討、展示状況の最終確認などを行った。
 準備室の当初案は、完品を収集してこれを主とし、出土資料を従とする企画であったが、完品を集めることは予算や時間の制約でむずかしかったこと、監修委員の方々が首里城出土の中国・東南アジア資料を実見したところ、全国的に見てもハイレベルのものであることが判明したこと、この二つの理由から出土資料を主とする展示会に変わった。
 なお、同展に出品された資料を含む「沖縄県首里城京の内跡出土陶磁器」518点は、平成12年6月27日付けで国指定(重要文化財)となった。展示資料の多くを記念展図録『陶磁器に見る大交易時代の沖縄とアジア』で見ることができる。
 
8.図録など各種刊行物の刊行
 博物館開館に当って準備しなければならないいくつかの刊行物がある。まずは案内リーフレット。当初の予算要求では日本語、英語、中国語、韓国語、スペイン語の5種を要求したが、韓国語とスペイン語のそれは、カットされた。大きさは四つ折りで上着のポケットに入るサイズとし、壺屋散策のルートマップを添えている。受付に常置するほか、広報活動に活用している。
 次に『概要』。展示の基本方針をトップに持ってきたうえで、事業案内、展示案内、施設案内、観覧案内を掲載し、関係者に配布している。
 開館および開館記念特別展案内ポスター。このポスターは当館の<顔>となるため、デザインを県内・国内のみならず海外の展覧会においても数々の受賞歴を持つ宮城保武氏に依頼し、好評を博した。宮城氏には開館記念特別展図録のデザインもお願いしている。
 常設展ガイドブックは、常設展示の内容に沿って構成されている。すなわち、「1.やきものの基礎知識」「2.沖縄の焼物の歴史」「3.焼物の製法」「4.壺屋焼の技法」「5.暮らしと壺屋焼」「6.壺屋焼の特徴的な作品」「7、屋外展示・掘り出された湧田の平窯」の順である。A4版、32ページ。定価680円。ちなみに、博物館入口ロビーに掲示されている「観覧者のみなさんへ」を、同ガイドブック冒頭に掲載しているので以下に紹介する。この文章は当館の常設展示の基本的な考え方を示すものである。
 人が手を使い、火を使い、自然を素材として作り続けて今にいたる焼物。それは、長い歴史を持つ人類の文化遺産です。
わたしたちの沖縄でも、人々は周辺地域と交流しながら、自然に親しむ暮らしの中で焼物の文化を育ててきました。焼物の歴史をたどると、時代の求めに応じながらさまざまに変化してきたことがよくわかります。
 そのようすを、沖縄の焼物を支え、リードしてきた壺屋と壺屋焼を中心に描くのが、わたしたちの博物館の展示のテーマです。この展示を壺屋のまち並みにつなげていただき、壺屋焼と沖縄の焼物のこれからを考えていただければ幸いです。
開館記念特別展図録『陶磁器に見る大交易時代の沖縄とアジア』。これについては前述の通りである。構成は第一部「陶磁器輸入の流れ」、第二部「輸入陶磁器の精華ー首里城『京の内』跡の出土資料から」からなり、解説を金城亀信・金武正紀両氏に依頼、巻末論文を「中国の陶磁器」と題して長谷部楽爾、「東南アジアの陶磁と沖縄」と題して尾崎直人両氏にお願いした。いずれも特別展監修委員である。A4版、54ページ。1680円で販売している。

9.課題、その後
 1998年2月1日、那覇市立壺屋焼物博物館がオープンした。開館時点で残された課題をいくつか拾いあげると、まず学芸員配置の問題。わたしたちは、準備段階から4人の配置を要求してきた。考古学・歴史・民俗・美術工芸を専門とする学芸員である。というのは、沖縄の焼物の歴史、焼物文化をテーマとする当館にとって、あるいはこれからの焼物研究の展開を見据えるとき、これらの分野からのアプローチは不可欠だからであり、展示の構成もその方向で行われている。同年3月、現状の2人にもう一人を追加して3人体制で行くことが確定した。しかし配置は1年遅れて、99年4月に行われた。現行は考古学1人、歴史・民俗担当1人、美術工芸担当1人である。
 資料の調査研究と収集活動。学芸員を主とした調査研究は博物館活動のベースであり、これ抜きの博物館活動はありえない。その意味で調査研究紀要の刊行が必要とされるが、紀要については99年度創刊。開館記念特集号として、開館にいたる経緯や館の位置付けなどの報告を掲載している。
 一方、常設展示を完成できたのは開館ほぼ一ヶ月前の97年12月末日である。市民からの寄贈・寄託と購入によって、とりあえずシナリオをつなぐことができた、といった段階でのスタートとなった。準備室の設置段階で資料はほぼゼロという状況と、従来の沖縄陶磁研究が歴史、美術工芸、考古、民俗などの分野で相互に連携することなくめいめいで行われていたことが、展示実施計画の一番大きな障害となった。資料の充実と調査研究の深化による常設展の充実が切に望まれるところである。 
 特別展・企画展の実施。博物館における常設展示と特別展・企画展の開催は車の両輪のようなものである。ところが、開館2年目のこの分野の予算はゼロ、翌99年度に市民・県民から寄贈・寄託された資料を紹介する「収蔵品展」開催の予算が認められ、20000年度に企画展「人間国宝の茶陶」展と特別展「日本のやきものー日本民藝館名品展」を開催することができた。市民に歓迎される企画展・特別展の継続的な実施が課題である。
 地域との連携強化。博物館敷地の8割を地元(壺屋町民会)から寄贈されたことに端的に示されているように、壺屋・地域・市民のこの博物館に寄せる地域活性化の核としての期待は大きい。そこでまず企図したのは、地元商店街(壺屋やちむん通り会)の開店時間帯に近い午前10時〜午後6時を開館時間として設定したことである。類似他館の大半は、午前9時〜午後5時となっている。99年2月には館前通り(壺屋やちむん通り)が琉球石灰岩で舗装整備されたことと焼物博物館開館1周年を記念して「通り会」が開催した「壺屋やちむん通りまつり」に連動した企画「壺屋やちむん通り展」を開催、壺屋陶器事業協同組合青年部が発足した2000年度には当館から提起して同部発足記念展を3階ギャラリーで開催している。
 市民・観覧者サービスの提供・拡充。1階ロビーには受付・トイレの他に、「ゆんたくコーナー」がある。ここには常時職員を配置し、求めに応じて展示案内を行う他、焼物や壺屋・観光地に関する情報などを提供している。また、一角にテレビを設置、焼物に関するビデオ上映を随時行っている。1階ロビーは無料ゾーンとし、通りを行く人々のトイレ使用、飲料水提供、壺屋焼・「壺屋やちむん通り商店街」に関する情報提供などのサービスを行っている。2000年度からボランティア養成講座を実施しており、01年度から展示室でボランティアによる展示解説が開始される予定である。
 学校教育との連携。壺屋焼物博物館はまず生涯学習施設としてある。もちろん文化財保護施設としての役割も併せ持つ。一方では未来の那覇市・沖縄県をになう児童生徒の学習施設でもある。ところが開館準備段階では、こども向けの配慮は解説文の表現をできるだけやさしく、という程度で、はたして子どもたちが常設展示を見てどの程度理解できるか、というチェックをするゆとりを持てなかった。はたして開館後の小学校の先生方の意見を聞くと、低学年は言うまでもなく、高学年にも事前指導がなければむずかしいのでは、ということであった。その意味では今後の常設展の改良が課題とされるが、一方では学校の先生方の事前学習やこども向けの見学の手引き作成、子供たち向けの体験教室などの、いわば常設展示の行間を埋める事業が求められてくる。99年度から実施している「夏休み親子やきもの体験教室」や「壺屋やちむん探検隊」、「探検隊ノート」の作成、小学校教師向けの常設展学習会と利用案内の講習はその解決を図るために開催され、現在にいたっている。2002年度から本核的に始まる学校の「総合的学習」時間に向けて博物館でもより積極的な対応が求められており、その準備・試行を進めているところである。
 広報活動。前述の印刷物配布による広報の他にマスコミ各社に対する報道依頼を随時行っている。2000年度から独自制作のホームページによる広報も行っているが、要はいかに市民のニーズに応えられる活動を行っているかのひとことに尽きる。
 最後に、21世紀は博物館の時代である。前世紀は19世紀にくらべて、人と<もの>の関わりにおいて大きく変化し、また変化した分大きなつけを21世紀に回した時代である。新世紀は両者のかかわりが根本から問い直される時代である。そんなとき、人と<もの>のかかわり方を焦点に据えて活動を続けてきた博物館の役割は、いよいよ評価される反面、注文も多くなることが予想される。個々の<もの>だけでなく、<もの>を残すだけでなく、<もの>が残る・生まれる・生きる<場>すなわち<現場>が、博物館の活動の対象として不可欠となり、また拠点となるだろう。わが那覇市立壺屋焼物博物館もまちがいなく新しい時代を迎えているのである。
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